2014年05月28日

きょうの時間SF

『フラッシュフォワード』ロバート・J・ソウヤー

時間SFは何も肉体を伴った時間移動、いわゆるタイムトラベルやタイムスリップ(自ら時間移動を行うのがタイムトラベル、意思と関係なく巻き込まれてしまうのがタイムスリップ)を扱うものだけではない。今回紹介する『フラッシュフォワード』は、「意識のみ」のタイムスリップを描いた作品だ。しかも全人類同時の。
ヒッグス粒子を発見するための実験によって、全世界の人間が同時に、しかし各々別のビジョンを見る。調査によってそのビジョンは、人々の意識が1分43秒間だけ、21年後を知覚したものだったことがわかる。それを期に変化する世界。望まぬ未来から逃れようとする者。未来は変えられないと受け入れようとする者。果たして、「フラッシュフォワード」は我々の未来なのか、、、
最新科学を扱ったワンアイディアを、これぞSF、という骨太な思弁と大胆な発想の物語に仕上げるソウヤーは、現在進行形のSF作家としてぜひ読んで欲しいオススメの作家だ。普通「ワンアイディア」ものというと短編が多いのだが、ソウヤーは水増しした印象を与えずきちんと長編に見合うだけの壮大で読み応えのある作品に仕上げる。『フラッシュフォワード』はその代表作のひとつ。海外ドラマ化もされたのだが、そちらは未見である。
また前回のこの項でも論じた「改変可能」「改変不可」の議論、つまり未来を知り得たとしてそれを回避できるか否かがこの作品のメインテーマでもある。SF慣れしてない人には厄介なテーマかも知れないが、比較的解りやすく描いており、時間SFを読んでいく上で常に問題となるテーマに一つの示唆を与えてくれる作品になるだろう。
そして本作のラストで人類が選ぶ、「フラッシュフォワード」現象、そして「未来」との向き合い方。科学の進歩を、様々な議論はあれど最終的にはポジティヴに受け入れようとするソウヤーの視点は、やはり真っ当なSF作家のそれであり、俺はとても好感を持っている。
なお、ソウヤーには『さよならダイノサウルス』という時間SFもある。こちらはもっと良い意味でバカバカしく(言うなればMMR的に)時間移動を扱っている。そういう振幅も含めて、ソウヤーはSF作家らしいSF作家だな、と強くお勧めできるのだ。


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2014年05月25日

きょうの時間SF

『雷のような音』レイ・ブラッドベリ
今日は短編を。
凄く大雑把な話をする。
時間SFは、過去に戻って現在を(ということは現在の行動によって未来を)「改変可能」なものと「改変不可」なものに分類できる。過去に戻って両親の結婚を邪魔したから自分の存在が消えて行く、、、みたいなのが「改変可能」。過去の時点で何をしようとしても何らかの要因によって改変が阻止または修正されてしまうのが「改変不可」。
この二者はさらにその可能/不可能の理由によってもう少し細かく分化することができるが、それは現在格闘中の別の文章(早く仕上げなければ!)で触れるのでここでは割愛する。「決定論」とか「自由意志」とか「無矛盾のループ」とか「多世界解釈」とかのワードに引っ掛かる人は、そちらを待って欲しい。
話を戻すと、要するに「改変可能」なものは『バック・トゥ・ザ・フューチャー』や『ドラえもん』を想像すると良いだろう。どちらにも、SFとしてはかなり「軽い」ものとされている。逆に比較的「硬い」SF、所謂「ハードSF」で「過去に戻って現在を描き換える」ものは少ないと思う(どこまでがハードSFか、という議論の用意はあるが、ここでは一般論としての科学的にリアルなSFを指している)。やはり「人間が徐々に消えていく」みたいは現象を科学的考証で擁護するのは難しいからだろう。ちなみに昨日紹介した『スローターハウス5』は、「改変不可」に属する。ただしこの作品は全く「ハード」とは言えないが。
前置きが長くなったが『雷のような音』についてだ。まず確認しておくと、この作品は「改変可能」に分類できる。
タイムマシンで過去に戻ることが可能な世界。そこでは太古に戻っての恐竜ハンティングツアーが行われていた。ただし、歴史を改変しないようにできるだけ過去に干渉してはいけない。そのため、時間旅行者には厳しいルールが課せられていた。しかし主人公は、ある小さな、本当に小さな過ちを犯してしまう、、、
正直に言ってタネ明かしをすれば大した話ではない。というか、タネ自体なんでもないと感じるかも知れない。ただ、その道具立てというか、主人公の「過ち」の原因となる小道具が洒落ている。そう、洒落ているし、そして鮮やかなのだ。
さっきも言ったようにこの作品は「改変可能」に分類できるが、「時間移動による歴史改変の論理的矛盾」ついての物語だ。わざと小難しく言ったが、ブラッドベリはこの小難しい問題を、短い物語のたった一つの小道具で、鮮やかに解決してみせる。そこにカオス理論などを持ち出す必要ない。学術用語もグラフもそこには必要ない。いとも簡単に、誰にでも解る形で、ブラッドベリは時間移動という我々の手に負えないような難題に自分なりの答えを出してしまう。それを、頭を捻って理屈を絞り出したような作品でなく、軽やかにそして鮮やかに、我々に「見せて」くれるのだ。それはとても難しいことだが、ブラッドベリは抜群のセンスで、成し遂げてしまう。そこが、とても格好いい。
ブラッドベリはよくその叙情的な作風から「SF界の詩人」と呼ばれるが、俺は同時に「SF界の手品師」でもあると思っている。ブラッドベリは数多くの短編を書いたが、決して新しくない設定・ガジェットを、別の視点から鮮やかに切り取ってしまう手並みに何度も(作品数が物凄いので本当に何度も)唸らせられた。
なお、『雷のような音』は『サウンド・オブ・サンダー』という題で映画化されている。ただし安易なパニック映画に成り下がっているので、お勧めはしない。というより台無しにされて怒っている。


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2014年05月23日

きょうの時間SF

『スローターハウス5』カート・ヴォネガット

 マイ・オールタイム・ベスト・オブ・時間移動SF。本来一方通行のはずの時間を「痙攣的」に、つまり自分の人生の様々な時点を行ったり来たりしながら生きる主人公。ある時はドレスデン空爆を迎える戦争捕虜としての、またある時はトラルファマドール星の動物園の飼育動物としての、彼の数奇な人生が断片的/断続的に語られる。
 一見トリッキーなだけの設定だが、ニヒリズムとヒューニズムの作家ヴォネガットは、そこに自身の戦争経験とー彼はドレスデン空襲を真只中で体験しているー創作生活で培った人生観を詰め込み、この世の理不尽に対するありったけの怒りと諦念を、本来なら相反する二つを「痙攣的」に我々に想起させる。
 主人公は未来と過去と現在を行き来しながら経験するが、その全ては「決定的」であり改変できない。つまり彼は全てを知っていながら、それを知らない我々と同じように振る舞うことしかできない。その点で、彼は我々と変わらない。ただ知っていて、受け入れているだけなのだ。
 そもそも、我々の行動・感情・思想など巨視的に見れば無に等しい。どんな蛮行も、強い願いも「So, it goes.」で片付く。どこかのマッドサイエンティストは「もっと四次元的に考えるんじゃ」と言った。我々にそれは受け入れられるだろうか?四次元的に考えれば、どんな愚者も英雄も、産まれてから死ぬまで決められた、そしてどれも代わり映えのしない、か細いレールの上を無意味に走らされているだけなのだ。
 それは絶望だろうか?否、ヴォネガットはそれを前提にそれでも/だからこそ人間を肯定する。我々は確かに知らない。だからこそ叫ぶ、「我々は自由だ」と。いや、たとえ人生が決定付られていることを知ったとしても、それを受け入れずに自由意志を信じ続けることさえ、できるかもしれない。それ程人間は愚かだ。そしてだからこそ尊い。
トラルファマドール星人は言う。「自由意志というものが語られる世界は、地球だけだ」と。人間は四次元的には考えられない。だからこそ自由だ。
 『スローターハウス5』を読む度、に主人公のラストシーンでの行動/メッセージのあと、世界はどうなるのだろう、と考える。人間は、変わるような気もするし、結局変わらないような気もする。どちらにしろ、多分人間は相変わらず自由だ。そして、それゆえに相変わらず愚かで、醜く、美しい。そしてヴォネガットは、そのことを一番理解しているSF作家だと思うのだ。

 

 
 
 
posted by 淺越岳人 at 23:46| Comment(0) | TrackBack(0) | SF | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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